三重の狼煙(烽火)台を訪ねて(その1)

2015.8.14



加藤 進 社会連携特任教授


 伊賀研究拠点では、H26年度から「忍者研究」に人文学部の山田教授と連携を取りながら、自然科学的な切り口からアプローチ

を開始しました。私はその中で研究テーマとして「狼煙(のろし)」を選択しました。幸いなことに、三重は1400から1600年代にか

けて激動の歴史の中を生きてきました。その証として伊賀市や松阪市には多くの関連の中世城館があります。
 
 狼煙の研究のために文献を頼りに、伊賀や松阪の中世城館と狼煙場を訪れて、調査を開始しました。すでに高名な研究者によ

って報告はなされておりますが、時と共に遺跡も変容を遂げていきます。ここでは平成27年現在の状況を報告したいと思います。

もとより浅学な自分ですので思わぬ間違いがあるかもしれません。皆様のご指導、ご鞭撻をよろしくお願い申し上げます。編集の

都合で前後しますが、
 第1回目は大河内城跡(H27.8.14)です。大河内城跡は松阪市大河内

城山にあり、伊勢の国司、北畠満雅によって築城されたといわれていま

す。標高は110mです。坂内川にかかるしろやま橋を渡って、西蓮寺に

突き当たり、見日に折れると標識があります。よく整理された道に沿っ

て登っていきます。城跡は坂内川とその支川の矢津川と合流点近くに

位置します。(google地図参照)。
                                 
東側には平野が広がり、北から西側に尾根を含む丘陵が

あります。まさに天然の要塞の感があります。残念ながら

、高速道路によって東西の連絡は絶たれています。
 
 この登り口は南側でしばらく登と草むらの中に苔むした

「搦手跡」と書かれた石柱に出会います。さらに坂道を登

っていくといよいよ二の丸跡です。  
道順は右です(石垣は後世に造られたものと思われます)。この道とは反対に左を取ると、苔むした医師の坂や西に降りていく小道

が続いています(時期が夏でありマムシが怖いので探検は断念)、さらに進むと馬場跡に大手門があったことになります。もう一度

冬に訪れて確認したいと思っています。

 大河内城跡は、これまで見てきた中世城館に比べて相当の広さがあります。福井によれば東西約400m、南北約800mの規模とさ

れている。二の丸を経て本丸に上ります。通路の左はかなり深い堀切となっています。本丸には神社が建築され、造成にともなっ

てかなりの変容があったようです。わずかに曲輪の平坦な場所が残っている限りです。本丸北側には、知る人ぞ知る"城跡に拳を

に握る蕨かな"の句碑があります。

 さて、本丸から西の丸には通称「まむし谷」を超えていきます。伝承によれば、この谷にはまむしが多く生息し、織田側の兵隊をた

いそう苦しめたといいます。現在は写真のように頑丈な橋で結ばれています。堀切の深さは2m程度かと思われます。
 
 
   



西の丸からは高速道路を垣間見ることができる。
 
 大河内城跡には狼煙台的な構造は見られない。標高が

低く、周りが丘陵に囲まれており、通信の意味は低そうで

あ る。最後の図は三重の中世城館(三重県教育委員会)

からの引用です。(二の丸、本丸、西の丸は加藤が記入)

さらに、二の丸には大手口を望むことができます。残念な

がら相当荒れており、搦手のように整理はされておりませ

ん。公民館に伝わる古地図には大手の両側に櫓台の跡

の記載もありますが現在となっては、確認は難しいようです

。坂内川に沿って、この城の2km弱尾根続(現在には伊

勢自動車道で切れている)きで、脇谷城跡があったといわ

れています。郷土史研究家の松田和生氏によるものであ

れば「20から30年前には山頂に堀切や狼煙台的なくぼみ

があったが、現在は登るのも困難で、埋もれているだろう」

との事でした。


 
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