阿坂城の"附けたり"の高城跡と枳城跡を訪ねて

2016.4.21

加藤 進 社会連携特任教授

 以前に報告した阿坂城跡に付随すると言われる2城跡を巡りました。これは高城跡(たか)と枳城跡(からたち)です。両者の相対位置をみてみましょう。カシミール3Dで示したものです(地点はNとEを実測)。おおむね2km以内にあります。枳城跡から阿坂城跡は現在でも見えますが、高城跡からは木立に囲まれて見通しが悪く、確認できません。

【高城跡】

この城は単純な構造で、いわゆる単郭構造となっています。標高は曲輪の中心で48mでした。大阿坂神社の右から少し坂を登ると登山道に入ります。裾野にも平原がありますが、みかん畑等に変容しており関係の確認は困難です。途中には近くの池で事故にあった子供達を供養する地蔵さんがありました。

断面図を作って見通しを計算すると、高城跡~阿坂城跡は計算上はみえることになります。ごらんのようにさえぎる物はありません。

Aが虎口です。ここから曲輪に入るとその正面にVにきれこんだ出口Bがあります。Aの両サイドは高い土塁に囲まれ、櫓台があった可能性もありそうです。特にC点は広くなり、櫓台あったかも知れません。不思議なことに、この城の土塁の一番高いところはBの両側で4~5mあります。この先に阿坂城があり、いったいこの方向に土塁を高く盛った意味はなんでしょうか?この意味から、この城は織田方によって改変されたという研究者もいるようです。曲輪内部にはくぼ地が数か所認められます。風化によってできた物か、廃城後にできた物か、小規模な曲輪(薄い土塁?)かは今となっては判断ができません。Bから外に出て100mほど歩くと広い台地があり、お墓と石碑があります。

写真はアプローチからAの虎口をアプローチから見た物です。もう一つの写真は曲輪の虎口からB点を見た物です。写真では迫力がありませんが、土塁は高い物です。

その高い土塁から曲輪を見下ろしたのが最後の写真です。初めに述べたように数個のくぼ地が見えます。ところどころに礎石らしき平らな石を発見しました。

(引用文献:三重の中世城館、三重県教育委員会編)


高城跡 中央の白く抜けたところが主郭(google)


主郭内部にあるくぼ地

【枳城跡】

この城跡は、通称、大日山の頂上、H=189mにあります。道は地元の保存会によって整備されており迷うことはありません。伊勢道の山側にあります。写真は尾根筋を歩いて頂上にもう一歩の所です。何処か、その風景が宇気郷にある"髭山"を思い出させます。この道の土塁の上に城跡があります。頂上には仏像が安置されています。

城の概要はスケッチ(三重の中世城館)のとおりです。東西に長い形状で、東と西に堀切を確認できます。西堀切はやや深く、近くには腰曲輪を思わせる平らな場所があります。このスケッチには頂上に薄い土塁に囲まれた曲輪が画ががれていますが、現在これを確認するのは至難の業でした。三重の中世城館が出版された当時は、薄い土塁の確認が可能であっても、40年近くたっているので、落ち葉が積もりあたりも風化しているので。。。。さすがに眺望は良く、阿坂城と松阪(伊勢寺地区)を一望にすることができます。


写真 枳城跡からみる阿坂城跡

松阪市を見下ろす

左の上に、うまい具合に"白い煙"が上がっています。高地からみると、平野から揚げた狼煙はこのように見えた物と思われます。距離として4km前後と思われます。曲輪は長方形で、以下の写真のとおりです。日が良く当たる性か、説明板の文字は朽ち果て読むことができませんでした。この城も阿坂城の出城とされています。近くには水の手が無く、飲料水の確保には苦労したかもしれません。高城跡は、民家から近くで、訪れる城の愛好家も多いようですが、この城は少し離れており、やや登りがきついので、あまり訪問者もない様子です。

 ところで、阿坂~箕田~伊勢寺地区には有名な神社・仏閣があります。たとえば、大阿坂神社、小阿坂神社、箕田(敏田)神社などです。大晦日に行われる神事、箕田神社の傍には昔大伽藍を誇ったと思われる眞楽寺や美濃田の大仏、伊勢寺には国分寺跡があります。国分寺跡には、「忘れ井」と石碑があります。「恋しくば、尋ねてもこよいせの国、いせ寺もとにすめるわらわを」と刻まれています。松阪にはあと2か所、「忘れ井」があり、嬉野と市場の庄にあります。また、機会をみて報告したいと思います。なお、本稿は、島川安太郎:松阪の町の歴史を参考にさせていただきました。


曲輪の東から西側をみる


写真の最後は、にしの堀切から土塁を見上げたもので、高いところは2~3mあろうかといううしろものです・


白米城(阿坂城跡南部)の航空写真 (google)