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狼煙台を求めて黒米山に登る

加藤 進 社会連携特任教授

 10月20日(木)は松阪山城会の例会で見出しの山に登りました。黒米山は標高が540mで登り口の後山地区は300m程度の標高です。今回は急峻な登りと言うことで地元に住む大家氏(80歳、黒米山所有)に案内をしていただきました。この山は、以前から気になっていた山で、霧山城跡(多気)から揚げた烽火を髭山(写真1)で中継しさらに黒米山で堀坂山に中継する重要なポイントです。写真1ですが、石垣がみえます。これは後世の修正で、当時には石垣は無かったと思われます。

 ちょっと位置関係を断面図で見てみましょう。カシミール3Dで断面をみると、


図2 霧山城跡~髭山~黒米山~掘阪山

 図2のとおりです。三角点近くに登ると木々の間から、かすかに髭山を望むことができました。「郷土史研究家の松田さん」によれば、若いころ(S30頃)は髭山と堀坂山がはっきり見えたとのことでした。

 この黒米山の縄張り図を見つけることは困難です。三重の中世城館並びに同補遺にも発見することはできません。登ってみると、明瞭な堀切とやや薄いですが土塁を確認できます。順に見ていきましょう。その前にtrack route(図3)を示しておきます。尾根筋を探して大家氏宅から急峻な登りです。100m位の登りで尾根筋に出ました。


図3 黒米山 track route

 図3中のAがまず我々を迎えてくれる巨大な堀切(写真4)です。少し埋まっておりますが高い方の切込みは4~5mで、幅は1.5~2mくらいです。これを左に回り込むと堀切Bにでます。三角点を経てさらに尾根を右に登って行くとやや薄いですが土塁(写真5)らしき見晴らしが良かったであろう場所にでました。烽火をあげた場所かもしれません。あと一つこの先に堀切(D)がありました。

 帰りは元来た道を通らず、別の尾根から下りました。途中にお茶の木を見つけました。かつては茶畑でもあったようです。松阪の山ではよく見られる風景です。小原に続くと思われるけもの道が残っておりました。少し、尾根を下ると炭焼き窯の跡を発見しました。同じような窯跡は坂内城跡でも見つけました。この窯跡では焚口、窯を作るための石垣などを見ることができました。炭焼きには水が必要です。かつてはどこかに水場があった可能性もあります。下山途中で見事な「大銀杏だけ」を発見しました。会員の一部は食用とのことで採取したようです。


   写真4 堀切 A

写真5 やや薄い土塁?

 この遺跡は、山城と言うよりは見張り台兼烽火台と考えたほうが良さそうで、途中に広い曲輪を見つけることはできませんでした。最後は登り口から堀坂山(伊勢富士とも呼ばれます)を見た写真です。はっきりと確認ができます。


写真6 後山から見た堀坂山


図7 黒米山のからの可視マップ(R=6km)

 この図7は半径=6kmで、計算の中心を黒米山に置いて、カシミール3Dで可視マップを求めた物です。ピンク色の可視範囲部分は少ない(標高が低いので)ですが、柚原城跡や堀坂山をカバーしているのがわかります。残念ながら坂内城跡や大河内城跡からは黒米山の烽火を見ることはできません。坂内城跡や大河内城跡では堀坂山で中継された烽火を見ることになります。少し見にくいかもしれませんが、図7を見ると、黒米山あるいは堀坂山を左に見て、右側におおむね一直線上に高城跡、阿坂城跡、枳城跡、岩内城跡、伊勢寺城跡....と並んでいるのが分かります。東側に対して北畠軍は防衛線を張り巡らしたようです。

 また、途中の細野峠から見ると高い「高場」という頂上があり、烽火をあげたという伝承が残っているようです。しかし、ここで烽火をあげても、可視マップを計算してみると結果的には黒米山と大きな差異はありません。地域の伝承としたほうが良さそうです。こうしてみると堀坂山は重要になってきます。標高が767mとこの地区では一番高いので松阪市~勢和(五箇篠山城跡)でも確認が可能です。私は、"堀坂山の北側に人工的に張り出した部分"が烽火台のような気がします。そのような箇所は阿坂城跡(南郭)にも見ることができます。

 今回は時間の関係で、柚原城跡にはチャレンジしませんでした。後日、チャレンジする予定です。松本会長によれば、「柚原城跡から黒米山へのルートもあるが調査のために登ってみると、急峻で片道90minかかる」とのことでした

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