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岩内城跡を攻める(松阪山城の会例会)
加藤 進 社会連携特任教授
12月15日(木)は待ちに待った岩内(ようち)城跡に向かいました。一行は24名でこれまでの最大の参加者です。7:30に図書館に集合、7:45から古墳も含めた探索です。岩内城跡は『勢陽五鈴遺響』によれば「国司北畠家の別岩内主膳正光住セリ。時俗岩内御所ト称ス。。。。」とあるものの今では地元の人々にもあまり知られていない城跡である。
図1
三重の中世城館補遺には、図1の縄張り図があり、土塁、堀切等の施設は認められないとされている(以上松阪市史第6巻)。標高は320mとされている。松本会長はこの地点を3回(内1回は西出会員と)探索し、やはり遺構は無いとしている。GPSを使った今回のトラックルートを図2に示した。
図2 今回のトラックルート
日川(平家の落ち武者集落)にいたる道からも岩内城跡は登頂が可能のようですが、台風で橋が落ちているようです。その道を通るとA地点の近くまで昔は行けたようです。我々の取った道は1本道で、倒木をよけて通れば、簡単にA地点に着きます。特にAまでの行程は、切通しの連続で、山城のだいご味を味わえます。
図3 小林孚の著者から引用(岩内城跡の縄張り)
谷川に沿ってさかのぼるとA地点(写真1)に至る。ここはかなりの平地で北東に登ると320m地点に至る。面白いことに、積極評価するとここに薄い土塁を発見(写真2)できる。この土塁に沿ってさらに登ると2つの尾根の鞍部(B)にでる。人工的というよりは自然地形を利用した堀切のように見える(写真3)。この平らも相当の広さがある。尾根筋を西に進むと観音岳に至る。東側に斜面を進むと、2条の堀切があり、U形の腰曲輪に支えられた主郭にたどり着く。形状は単郭で、坂内、小原、枳城跡の系統を踏襲している。"松阪山城の会"会員の会費で前回から名板を作り、持ち主の許可を得て、これを主郭に付けることになった。写真4はこれを取り付けた松本会長の笑顔である。
図3は北畠研究家の小林孚氏(故人)の岩内城跡のスケッチです。少し細かいので、加藤が注をいれました。我々は、図1でみると「道らしいもの」の部分から主郭を目指したわけです。主郭の回りを取り巻くように腰曲輪が存在しています。この状態は今回の写真と良く対応しています。そして観音岳の方角、横滝神社への方角、鏡池への方角も対応しています。
なお、山城との関係は不明ですが、このあたりには瑞巌寺古墳群があります。大小15基以上ありそうです。そのうちで、1号(最大)、2号ならびに6号も訪問しました。特に1号古墳は鏡池の奥の山すそを利用した古墳で、盗掘の結果、石室が見えます。中に入ってみるとかなり広く、大人が3人は入れます。松阪はかつて東南海地震を受けていますが、全く完全な形の石室(写真7)が残っています。また、その近くには自然石で組んだアーチで作ったトンネル(写真8)があり、歴史的な価値が高い遺跡もあります。
写真1 問題の分かれ道A地点(右:320m地点、左を取る)
写真2 右上に薄い土塁が評価できる?
写真3 浅いが掘りきりのように見える(B地点を登ったすぐに)
写真4 主郭で名板を着ける
写真5 主郭をU字型にまく腰曲輪
写真6 1号古墳の入り口
写真7 石室内部
写真8 自然石で組んだアーチ
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