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三瀬谷に北畠具教(とものり)の胴塚を訪ねて

加藤 進   社会連携特任教授

 


図1

 12月17日は友人に頼んで、北畠関連の遺跡を訪ねて三瀬谷に。今回は、北畠館、胴塚、下三瀬(北畠)砦です。ついでに去年行った首塚(和歌山街道沿い)も紹介します。大河内城の戦いで和議を結んで織田信雄(のぶお、のぶかつ)を養子にし、具教は三瀬谷に隠居します。その隠居地が北畠館で、斜面を数段に掘削し、平地を作っています。縄張り図は図1(三重の中世城館)のとおりです。

 背後の北壁は急峻な斜面で攻められることはありません。西側には谷があり天然の堀切です。近くの秋葉山には見張り台があるそうです。最上部から矢印の曲輪を見たのが写真1です。この近くの民家裏に胴塚(写真2)があります。首塚(写真3)に比べると貧疎な物で岩を積み上げた感があります。もっともこの首塚も後世の作の可能性があり、首塚の後ろにしめをはった神域があり、ここに一石五輪塔が数基あることからこれがもともとの家来や具教の墓かも知れません。近くには北畠神社もありますがこれは移動されたものです。


図2

R42を渡って少し松阪よりに走るといよいよ下三瀬砦です。縄張り図(図2三重の中世城館)をみると立派な土塁でかこまれています。東の主郭(写真4)はかなり広いもので、内部には石で囲った井戸(写真5)があります。土橋をはさんで西にも小曲輪があり、その間に神社(写真6)があります。主郭と小郭を囲む土塁は見事な物で高さは3m、厚みの2m近くあります。説明板に寄れば明治のころまでは虎口には石垣が認められたようです。なお、大河内城跡には詠み人知らずの「城跡に拳を握る蕨かな」の句碑がありますが、胴塚には「花におく、霜も涙や染めぬらん昔の春をしのぶ想いに」の詠歌が刻まれています。戦国を駆け抜けた栄華から凋落を体験した悲運な武将の思いがにじみ出ているような気がします。

 


ひろい曲輪を見下ろす(館跡)  (写真1)

 


教具の胴塚(写真2)

教具の首塚(写真3)

東の主郭(砦跡)(写真4)

石で囲んだ井戸(砦跡)写真5)


土塁のコーナー部分(写真6)

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